kaichosanの日記

97~07年まで元Zaurusユーザーだった、フリーランスで流浪してる映像編集マンの雑多な日記です

 鎮魂・・・そして・・・ 5:46

 “1995.1.17 5:46”
 あの時から、丸10年が過ぎた。未明から、自宅では冷たい雨が降り続いてる・・・どうにも寝れなかったのは、この日を迎えたことだったか。
 あの日は、まだ学生だった。本来は桜ノ宮へ通っていたが、週に一度、新大阪にあった校舎へ行く日だったため、5時半には起きて洗面所で鏡を見ていて地震に襲われたんだった。弁当を用意していた母に火を消すように指示、家具の様子を見て回り、あとは地震速報を待った。だが、5分経っても10分経っても、速報が出ない。今でこそ、揺れを感じてからNHKが速報を出すまでに3分5分とかからないが、当時はそこまで敏感じゃなかった。それでもおかしい・・・。後に判ったのは既知の事実だが、神戸の情報が上がってなかったそうだ。
 6時45分。僕は駅にいた。すでに各TV局が地震を伝え、どうやら大変なことになった事は分かっていたが、学校が休みなのか電車が動くかどうか分からなくて、とりあえずいつも通り行動したんだった。音楽学校に通っていたため、AM/FMラジオを常に携帯していて、出発を待つ電車の中でずっとニュースに聞き入っていた。
 そして、学生の身でありながら94年末にバイト先経由で携帯を買っていたんで、学校や自宅に連絡を入れつつ、駅で6時間粘りに粘ったけど、結局電車は動かなかったんだっけ・・・。帰宅後、神戸の大学に行った連中の事を思い出した。京都と東京の同級生に連絡、各地から一斉に生存確認を取った。3日経っても、一人だけ連絡取れないヤツがいた。親元にも連絡ができない。一週間経って諦めかけた頃、日本海経由で名古屋へ非難していたのが分かって、友人一同、安堵した事を今でも覚えている。・・・だが、同じ高校の別の女生徒が、一人犠牲になった事をあとから耳にした。知り合いじゃなくて・・・という思いの前に、理不尽さを呪った。


 今日、あの震災から10年が過ぎた。人間なんて勝手なもので、これからは風化していく一方・・・マスメディアですら、今日を境に年々報道の規模を縮小していくのは目に見えている。あの時から何を失って何を得たのか・・・その成長が今後試されるだろう。奇しくも、昨年は国内では新潟で海外ではスマトラ沖で地震に起因する大きな被害が出た。近い将来には東南海地震が控えている・・・僕は、まともに被災し津波も予想される地域に住んでいる。河口に直結する最も近い河川が氾濫すれば、わが家は水没の危機もある。“その時”、一体、自分には何ができるのか・・・今、あらためて考えてみよう。